1989年5月、三男が産まれそうな時期だった。長男と次男が暇そうにおもちゃで遊んでいた。ゴールデンウィークだというのにどこにも連れていってなかった。そこで2人を連れて登ってのが霊山だった。きっと子供はどこでもよかったに違いない。そのときから20年が過ぎていた。麓にある子供の村には細君も子連れで何度かは行っていたが、まだ山には登ったことがなかった。
お天気も良く山仲間となったCANONに電話してみたら、彼もまた登ったことがなく午後から行こうと思っていたそうで、3人で出かけた。
午後2時に登山口に着く。家族連れが多く賑やかだ。奇岩を連ねる岩山が正面に見える。直立する玄武岩の熔岩柱状節理が独特で、ジャンダルムまでが存在していた。
見下し岩までは急登が続く。20年前にまだ小さかった子供と登った時のことを思い出しながら登った。ちょうど同じくらいの子が降りてくる。
15分程度で見晴台につく。今年単独で登った虎捕山が近くに見えるのだが、どれがそうなのか解らなかった。遠くには口太山・木幡山も見える。
CANONと霊山のパンフに使われる写真の構図ポイントを探して何度も撮影したが、やっと撮影ポイントがわかった。そこは「天狗の相撲場」といわれる高所恐怖症のCANONにとってはとても怖いスラブの上だった。
この山は平安時代初期に円仁によって開かれ、天台宗の拠点として栄え、最盛期は3600坊いたといわれる。
南北朝時代の延元2年(1337年)、北畠顕家が霊山城を築き義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国のを置くなど、奥羽地方における南朝方の一大拠点として機能した。しかし、北朝方が優勢になるにつれ、霊山の南朝軍も追い詰められていき、正平2年(1347年)、ついに落城した。以後、霊山が歴史の表舞台に現れることはなかった。域内の日枝社観音堂は往時をしのぶ遺構とされる。なお、山頂部分(国司舘跡)には現在も当時のものと思われる礎石が残されている。(Wikipedia)
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天狗の相撲場
護摩壇
こんなところがあったとは知らなかった。霊山はなかなか素晴らしい!
護摩壇から霊山城跡に向う途中の紅葉
(国司舘跡)と霊山城跡
ここからさらに北方に日枝神社や鶯岩等のポイントが延びているのだが、遠くから雷が聞こえてきたのであきらめて山頂に向い急いで下山することにした。登山客は我々以外に2組しか残っていない。
城跡から東に約300m緩やかなナラ林を歩くと東物見台という山頂だ。山頂からは太平洋も見えるそうだが、霞んでいて見えなかった。
学問岩
ここで般若心経を勉強していたのだろうか?「観自在菩薩…」って
旧アンテナ中継基地のルートをたどり下山。どんどん雨が近ずいてくる。山道を走って下山したのは初めての事。途中ツタウルシが真っ赤になっていて、まるで木が燃えているようだった。
なんとか降られずにPM4時に下山できた。
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