記 録 |
川俣町の文化財となっている小松倉百庚申の山 夏はマムシがいっぱいで要注意!
町史には次のようにある。
栗小手五岳第一といわれた口太山の麓,大綱木の中央を走る国道345号線の東に,村の人たちの昔からの信仰の山であった小松倉がある。その北麓には「小手風土記」に記されている小松駒山で倉常楽寺旧跡と,川俣町最古の嘉元2年(1304)の板碑2基がある。またその南麓には小手第七番札所千手観音堂が昔の姿そのままに深い杉木立に囲まれてひっそりと建っている。その小松倉の山頂には昔から養蚕の神として信仰されてきた百庚申と数多くの石神,石仏が祭られている。
川俣町には広く庚申信仰が行なわれていたとみえ,各地域に数多くの庚申塔や青面金剛像がみられる。しかし,庚申信仰の源流である三尺説による信仰とは違い,作神としての性格が濃かったのではないかと考えられる。小松倉の百庚申は養蚕の神として,村内はもとより近隣の人々から信仰されてきた。正月の初庚申の日には多くの人たちが,小さい米とぎざるを持ってお参りに行きそれを供え,代りのざるを借りてきてそれで桑を摘んだ。蚕が当るとお礼参りにざるを二つにして持って行ったという。ざるを供えたのでざる庚申ともいわれた。当日は下の千手観音堂の前の広場には,かご屋が店を並べたくさんのざるを売っていたという。現在はこの信仰も廃れ頂上への参道脇の庚申塔も倒れ,頂上の「申」の一字が刻まれた数多くの石塔も半ば土に埋れたままになっている。飯坂では初庚申に百庚申参りといって,米や豆などの供物を持って方々の庚申様を拝んで歩いたという。多くの庚申様を拝めばそれだけ御利益があると考えられ,一度に百の庚申様を拝んだことになる百庚申が多くの人の信仰を集めたようである。町内で一番古いと思われる庚申塔(宝永七年寅九月,1704年)が,小島下の町に現存している。
石碑の多さに驚いて調べてまた驚く次第。自宅からはちょうど南に位置している山。特に冬期間は日の出が遅い原因にもなっているのだが、足慣らしに登ってみた。薄暗い杉林の石段を登って行くと御堂が建っていて周りは杉葉が鬱蒼と堆積して妙な空気に包まれていた。そこに点在する数々の石碑。庚申さまだ。かろうじて分かる山道を山頂に進むと途中にも同様も石碑が4つのエリアにコロガッテいた。
中腹から崩れやすい岩が多くなり、山頂付近の松の多くは松くい虫で朽ち果てていた。
山頂は2つのピークがあり、北ピークに数多くの庚申さまの石碑が立っていたり転がっていたりする。何故か「金華山」と掘られた大きな石碑もあった。
南ピークは約30m程度離れてあるが、そこには「古峯神社」のお社が西向きに祭られていた。お社から3m下がるとNHKのTV中継アンテナが建っている。そこから南西方の展望が得られる。口太山と木幡山がすぐ近くに見えた。木々の間から安達太良連峰や女神山・七ケ森・花塚山などの山々をわずかに見ることができた。
帰路は入道へ降りる。こちらは道を覆う木もなく整備されているが、崩れた岩がゴロゴロして滑りやすい。北斜面は急で、子供の頃山頂から岩を故意に落として遊んだ事を思い出した。
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